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くすり百話  (第4回)  H 11.6.23
第7話 丹羽藤吉郎-佐賀の薬業偉
第8話 夏の風物詩「枇杷葉湯売り」の話
第7話  丹羽藤吉郎--佐賀の薬業偉人-
薬学の大恩人 医薬分業推進 日本薬剤師会長 薬品製造学権威
   

  明治4年、佐賀藩の武士道精神をしっ かと
 身につけて、東京大学の前身である 大学南
 校に入学した二人の若者があった。
  
 一人は数々の勇断で改革を実行され、薬学の
 大恩人
景仰され、日本薬学会頭と して活躍
 された丹羽藤吉郎、
他の一人は 国立衛生研
 究所においてフグ毒の研究、
有機合成による
 製薬工業の研究、指導、 数多くの業績
をあげ
 られた田原良純で あった。


  丹羽籐吉郎は安政3年(1856)2月2 日、佐
 賀藩海軍に勤める丹羽与左衛門の次男とし
 て生まれた。

  満10才の慶応2年、 佐賀藩校に学び文武の
 修業、特に、伝統 の葉隠精神を鍛えられた。
 15才の明治4年、佐賀藩海軍に勤める兄と兄
 弟そろって藩主のめがねに適い、
官費の英才
 教育制度
である「貢進生」に選ばれ、結髪帯
 刀の出で立ちで長崎から佐賀藩の軍艦で東
 向された。

  藤吉郎は東京大学の前身大学南校のドイツ
 語科に入学し、各藩の貢進生とドク トル・リッ
 テルに理化学教育を受けた。

  2年後、学制改正でドイツ語科は鉱山 学に
 変わったため
東大医学部の前身東京医学校
 に併設された製薬学科へ
転校して勉学に励ん
 だ。卒業後は助教授、教授と進んだ。


  何事にも、学生時代から積極的、改新的に
 行動をとられた。そのため雄志や苦 難は筆舌
 に尽くし難いと伝えられる。功績を学生時代か
 ら覗いてみると学生時代 には教育環境整備
 運動によって、当時と しては近代式薬学教室
 建設
に導かれた。
 助手時代には卒業生への学士号「製薬 士」授与
 制度を獲得された。

 助教授時代には明治19帝国学令による製薬科
 廃止決定を遺憾として決死の覚悟で文部大臣を
 に会見し、近代社会における薬学の重要性を力
 説、大臣の偏見を正して薬学在立を全うされた。

 薬品製造学の権威者であったが、学内に止まら
 ず、全国病院薬局長会議を 創設や、日本薬事
 協会長、日本薬剤師会長、日本薬学会頭を歴
 任されるなど広範な活動をされた。

 明治22年公布された薬律の不に公憤 され、学
 会、業界間を奔走されて、強 力な合同組織づく
 り機運に導かれた。

 全国薬剤師のリーダーとしても精力 的に活動さ
 れ、日本薬剤師会長の要職 を次のとおり、大正
 3年から昭和5年 の間に14年間、3代にわたっ
 て務めら れた。

 第6代会長(大正3年5月〜大正15年10月)
 第7代会長(大正15年12月〜昭和2年2月)
 第9代会長(昭和 4年 2月〜昭和5年3月)

  医薬分業の推進にも大変な尽力をさ れ、
 明治24年以来、医薬分業の総師と して、昭和
 5年逝去されるまで、医薬 分業確立のため東奔
 西走された。 

 (文献:日本薬剤師会史1994,薬局1967.7,
  佐賀県薬剤師会報1988.11) 

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第8話 夏の風物詩、「枇杷葉湯売り」の話

京や江戸の夏の風物詩として庶民に親しまれたものに、暑気払いの
「枇杷葉湯売り」がある。

売り声を張り上げ、薬缶で煎じて試飲させながら京都では行商、江戸では
街頭の立ち売りで売った.
明治期には、難波橋など名橋は勿論寂しい橋のたもとでも、
にが甘い褐色の暑気払いの枇杷葉湯が売られていた。

売り声は「第一暑気払いと、かくらん、毎年五月節句より、ご披露仕ります。
煎薬はお代物におよばず、たびたびいちめんにお振舞もうします。」
「京都烏丸、本家枇杷葉湯・・・」「是また消暑の散薬也、・・・・」

また、薬屋の店頭では薬缶で煮立てたてて通行人へ振るまうのが常だった
といわれる。

枇杷葉湯は中国にはなく、枇杷葉散があるが、内容は異なる。これの消暑の効能
を採用し、古くから医家が使用していた薬の枇杷葉湯を暑気払いの専門薬に仕立
てたものとされる。

枇杷葉湯の処方はいくつかあるが、枇杷葉、かっ香、木香、莪朮、呉茱萸、桂皮
の配合が多い。
「食傷、腹痛、二日酔い、暑月暑中り・・・」など、胃腸病を主効能として、暑気あたり
は従としてものもあった。

今年の盛夏には、枇杷葉湯を試されては如何でしょうか。


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